【ポケモンアニメ&映画考察】

 基本的に、自分はこういった創作物に関する考察は傍から見ていて滑稽であると感じてしまうので、あくまでも考察というよりは創作への批評という形とし、またそれも今回限りとします。

 

 

 

(1)アニメポケモンの致命的設定

スタッフも少し考えれば矛盾が生じやすいと気付いたはずだが、色々試行しているうちにいつの間にか定着してしまった因習を2つ挙げようと思う。

 

ポケモンと人間は友達

どう良心的に捉えても、人間とポケモンの間には「主(master)⇔ 従者(servant)」という明確な主従関係が存在している。

 

「友達同士であり対等」とした場合は寧ろ、人間の命令は「友達への一方的な命令」となりそれこそ非人道的行為となってしまうので、個人的には「育成者(trainer)⇔ 相棒(partner)」とぼかしたまましておくのが良かったのではないかと考えている。

 

 
ポケモンは嘘を吐かない

ポケモンは人語を理解しており、その上でポケモン間では人間と同様の高度な言語的コミュニケーションを取っている描写が存在するが、そういったものがある限り確実に嘘は存在する。

人語を話す事が出来るようになったニャースや、テレパシーを使うケルディオが嘘吐きになっていることが何よりの証拠。

 

但し、普通のポケモンが行うジェスチャーや鳴き声のみによる伝達法では人間に対してやや嘘が吐きにくいのは確か。

 


なお、ボルケニオン映画は、彼だけがそう思い込んでいるという演出にすることで、巧みにその議論を回避している。

 

(参考動画)

www.nicovideo.jp

 

 

 

(2)ホウエン映画の特長

ホウエン映画の特長、及び他地方映画との決定的相違点は、日数を重ねることで登場人物の心情変化を巧みに表現している点であり(デオキシス映画は少し浅いが)、序盤の盛り上げや感動シーンの多さにおいても相対的に優れている。

これは自分がAG世代で思い出補正があるから贔屓しているという訳ではなく(思い出補正なら寧ろ最初の3作の方がある)、可能な限り客観的に見てもジラーチルカリオマナフィ映画はそうであると思う。

 

ルカリオ映画はその中でも特に優れており、サトシとルカリオの相互理解を通じて「サトシとピカチュウ」・「アーロンとルカリオ」の深い絆を見事に描いている。

ポケモンマスターというBIG DREAMを持ち日々それを真摯に目指していながら、他人やポケモンの身に危険が起きればその度に平気で自らの命を差し出して救おうとする、その直向きさ・正義感・無鉄砲さは正に主人公の鑑。

 

元々自分は特にこの映画には大した思い出補正も思い入れも無く評価もしていなかったのだが、2017年夏に改めて観たことでその印象を大きく見直すこととなった。

(但し、明らかに弟子であるルカリオをアーロンが友達だと思っているという設定と、(アニメ開始後8年も経過した作品でこれを言及するのはナンセンスだがやはり)「人とポケモンは友達である」という設定に対する違和感だけは拭い切れなかった。)

 

 

 

あーおいあ~おい、静かーな夜には~♪

おい~らひとりで、哲学するの~にゃ~♪